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| 昭和19年からの日記
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二代目主人の松本益平が若いころから付けていた「一日一行日記」をもとに編集しました。
父の一日一行日記
父・益平は中学卒業と共に祖父が経営する銭湯を手伝い始め、戦後の一時期、文房具屋を営んだ以外は一貫して銭湯一筋に生きて来た。現在、私が継いでいる荒川土手に近いタカラ湯がそれである。下町の庶民生活に密着した家業を営む人特有の律義とか勤勉とか実直とかの言葉をそっくり絵に描いたような男であった。頑固でもあった。
昭和二十四年、文房具屋の娘の母・洋子と結婚。それを機にタカラ湯をすぐ上の兄夫婦にまかせ、隣りの荒川の宮地に文房具屋を開業した。小学校の校門の横にあったせいもあって、店は大繁盛したという。しかし、銭湯に対する思い断ち難く、四年で文房具店を母の弟に委譲。その間の儲けを注ぎ込んで板橋に新しい銭湯を開業して四、五年後、兄夫婦と交換して、自分は再びタカラ湯へ戻った。商才のある人でもあった。私はその文房具屋時代に生れている。
父を語るのに、あの〃有名〃な一日一行日記を欠かすことは出来ない。 父が、若い頃からほとんど毎日日記を付けていたことは、家族・親戚の誰もが知っていた。更に〃有名〃になったのは、全国の銭湯を行脚して記事を書いている私とも親しいルポライターが、父の日記は、銭湯業の内側ばかりでなく、その時々の世相や庶民生活の日常を巧まずして記録した貴重な史料であるというわけで、ある雑誌にその一部を引用して紹介したからだ。しかし、父は家族の誰にも日記を見せたことはない。私も、実際に貢を開いて見たのは、父が亡くなってからである。
中学の時に買ったという大学ノートを使って、十八歳の昭和十九年六月から書き始められた一日一行日記は、五十年後の平成六年八月の死の四日前まで書き継がれている。ノートの見開き二貢の左右の各一行をつないで横書きの一行に使い、几帳面な細かい文字でぴっしりと埋められ、上下の余白にも、銭湯の売上げや米や大豆の値段、婚礼や法事などの身内間の重要な行事、さすがに一行では書き切れなかった自分の思いなどが無駄なく記されている。かと言って、常に大学ノートを使っていたわけではない。新聞の折込みのチラシや番台に貼ってあるカレンダーの余白など、その時に手元にあったものにメモのように書き付けている場合が多い。ノートを始め雑多な紙に書き記された一日一行日記は、ちょうど五十年分でタンボール一箱分ほどになる。
一日分の長さがどの程度のものかを知ってもらうために、例えば、私が生れる前年の昭和二十四年の日記から拾って見る。(漢字の一部は現在の当用漢字に、カタカナ文はひらがな文に置き換え、読みやすくするために句読点も補った)
『夜中の雨が朝に持越して折角の日曜も台なしとなる。午后は止んでひしひしと暑い。いよいよ今日は土用の入り。静子日直なり。生徒二名遊学に来る。富姉の姉さん、白ウリ、ナス、トマト等々沢山お持下さる。面白い人だ』(昭和二十四年七月二十日)
仲々の名文だと思う。いかに多くのことを一行の中に簡潔に記録するかという文章修業も兼ねていたのかも知れない。勉強熱心な人でもあった。
静子とは父の妹で、当時、女子専門学枚の講師を勤めており、家族で一番のインテリであった。日直というのは学校の日直のことか。また、遊学とは先生の家に生徒が遊びに来るのをそう言ったのか。富姉とは、同居していた兄(私たちの伯父)の嫁(伯母)である。
父は、この妹・静子を愛し尊敬していた。『静子は心身共に大きく又偉くなった。金で買えない教養の高さは先生タイプも板について頼もしい』(二十四年七月二日)。慕っていた次兄の戦死が確定したこの頃、父は悲観的になっていたらしい。その時は既に結婚していたはずの母にではなく、妹に助けを求めている。『やさしい兄は戦死され、俺は今后何して生きていったらいいか分らなくなった。静子。俺の後盾となってくれ。頼む!』(同七月三十日)。 |
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日々新たなり
祖父が昭和十三年に亡くなった後、戦中、戦後の苦しい時代を祖母が中心になってタカラ湯をきり回してきた。父は、この母(祖母)を、心から尊敬しこの上なく大切に思っていた。あまり体が丈夫でなかった祖母を気遣う優しさがそこかしこに滲み出ている。
『母が毎日年齢以上の働きをして下さり全く感謝の言葉もなし』(二十一年七月十五日)『母、又々早朝三時より大童の活動なり。体を悪くしなければとそれのみ心配也』(同七月十七日)。当時の銭湯は、午前六時頃からの朝湯に始まり、夜十一時頃まで営業していた。『母の努力が毎朝早くから全く頭が下がる様である。母が早く安心出来る様な良い嫁が欲しい』(同十二月十日)。親孝行な息子だったのだ。終戦直後の食料難の頃、祖母は庭に野菜を栽培していたらしい。『母の懸命な努力で南瓜の見事なのが沢山出来た。母の喜び方一方ならず』(同八月十一日)と、喜ぶ祖母の姿に父も喜んでいる。
祖母は次男を戦争で亡くしている。フィリピンでの戦死がほぼ確定したのが二十一年七月。『鳴呼、遂に健兄の戦死確定的となる』(同七月二十八日)。『母、最近涙ぽくなった。健兄をふびんに思う親の心はわれわれ風情に理解出来るものではない』(同七月二十九日)。その健兄の遺骨が帰って来た三年後の二十四年八月初旬。『母、兄、益、葬儀社へ依頼に行く』(二十四年八月一日)。『明日の遺骨到着を控え家の中、戦場のようだ』。(同八月四日)。そして当日。『遺骨と名の付く杉の箱、芝増上寺へ。母の意中察して余りあり』(同八月五日)。杉の箱には位牌のみが入っていた。
祖母は、板の間荒らし(銭湯を専門に狙う泥棒)を捕らえる名人でもあったようだ。例えば、昭和二十一年七月から十二月までの間に、『母、犯罪防止会より犯人検挙の功にて表彰されて千住会館へ行く』『母、来る人毎に表彰状見せている。母の番台の努力の賜物なり』『母、昨夜捕らえた犯人の事にて警察へ行く。昨夜板の間を捕らえたのも束の間今日は見事逃げられる』『母又々板の間の功にて表彰される』『母又々大手柄する。男の板の間朝逮捕する』。
父も、板の間荒らしを捕まえたことがある。『男湯で近所の顔見知りの爺さんが板の間やり交番へつき出す』。しかし、祖母ほどの名人ではなかったらしい。『午后三時女の板の間捕えたが今迄七回も盗んだ。その品を取って来ると見事逃げられて仕舞う』。
ロッカー式になった現在でも板の間は銭湯業の悩みの種である。それにしても、いかに板の間の多い時代だったことか。
祖母の努力を賛嘆の目で見ながらも、若い父には銭湯業は煩わしくも思えた。
銭湯では他の銭湯の悪口は禁物と言う。早い話、松本家でも、代々、五、六軒の店を肉親、親戚間ののれん分け等で経営して来ている。常に数軒の銭湯と親戚付合いがあった。つまり、一見ライバルのようでいて、見えない所でつながっていることが多い。
父の場合、中学卒業と共に祖父の経営するタカラ湯に小僧(当時、銭湯の見習いをこう呼んだ)として手伝い始め、祖父が亡くなった後は母親を手伝い、戦後は、復員して来た三番目の兄と共に経営に関わって来た。日誌には、仕事に対する不満が所々に見られる。次第に、家を出て他の仕事で独立したいという気持ちが強くなって行った。一行日記には、身内についての率直な批評も散見されるので、家族には見せなかったものであろう。
二十一年九月三日の日記では『俺の一生を決する文房具屋の話はなかなか進まず』と苛立っている。後に、この文房具屋の娘である母と結婚することになるわけだが、進まずと嘆いているのは縁談のことか、または、文房具屋へ転業する話か。『男と女の裸体を一年三百六十五日何の変りばえもなく、一段高い番台とやらから見て過す。豈(あに)偏屈人とならざる可かんや?』(二十四年十月十一日)と、時には虚無的に書いている。
父が何歳で初めて番台に座ったのかは日記からは分らない。もっぱら、祖母か、同居していた兄嫁が座ったらしい。若い男はなるべく番台に出すまいという祖母の配慮もあったろう。私の母もそうだった。私が家業を本格的に手伝い始めたのは母が亡くなってからだから、番台に出たのは三十五、六歳を過ぎてからである。その時には平気になっていたが、若い頃は嫌だった。もっとも、現在は番台を脱衣場の外におく〃フロント〃形式が増えており、タカラ湯もそうである。
一方、『目に見えない努力は尊い。おれは天下で一等だと威張る者は別だがコツコツと勤勉(はげ)んで黙して働く者の姿は神の姿だ』(同六月三十日)。『皆んなが努力している。毎日の皆んなの行いが前進々歩を遂げる時日本一のタカラ湯になる。歴史は日々新に書かれつつある』(同七月十八日)。この父の方が、私の知っている父に近いが、この頃、父は、まだ二十四、五歳だったのだ。時には虚無的になっても当然である。
カメラマンで身を立てたいと言った時、普段は頑固な父が、拍子抜けする位にあっさりと「やってみたらいい」と言ってくれたのも、自分の若い頃を思い起こしての事だったのか。弟は、次男の気楽さであっさりサラリーマンになった。 |
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B29は銭湯を狙った
太平洋戦争での空襲では、もっぱら銭湯が狙われた。高い煙突が工場と間違われたかららしい。太平洋戦争が始まった昭和十六年には、都内に二、七六九軒あった銭湯が、昭和二十二年には七一一軒に激減していた。もちろん、そんなことは父の一日一行日記には書いていない。後に専門家が調べたことである。親戚が経営する佐賀湯も空襲で焼失した。幸いタカラ湯は生き延びた。
タカラ湯の創業は、祖父の代の昭和二年。現在の建物は昭和十三年の再建で、千鳥破風の宮作り様式は、典型的な浴場建築として幾度か雑誌やテレビでも紹介されている。しかし、銭湯に欠かせないのは、建物の様式ではなくて燃料である。
戦況益々厳しくなる昭和十九年頃には、燃料不足が絶望的になっていた。それでも、近所の風呂屋が三日、四日と休む中、タカラ湯は、ほとんど休まずに営業し続けている。燃料はどうしたのか。
『正午過又々警戒警報すぐ空襲警報。日本皮革へ行く。大車3台、中車4、5台。三時半警報解除す』(昭和十九年十一月七日)。これは、どういうことかと言うと、近所に大きな革靴工場があり、靴の木製や材料の切れ端をもらいに大八車で三台、中位のリヤカー四、五台で行ったということだ。
『燃料、相当に困って来る』(同十一月十一日)。『仕込み時、燃料実に困った』(同十一月十二日)。皮革工場の他、小僧や女中を連れてベニヤ工場や木工場からはオガ屑を、エンピツ工場からはチップをもらいに行った。また、疎開で打ち壊された家の廃材をリヤカーで運んだ。やがて空襲がやって来る。
『敵機を皮革会社の上空に始めて見る。実に恐ろしかった』(昭和十九年十一月八日)。『九州地方又々空襲される。桂林陥落する』(同十一月十日)。
空襲は次第に激しさを増して来る。父の思い出話によると、「最初のうちは、空襲警報のサイレンが鳴るとスッポンポンで湯船を飛び出して逃げる客が多かったが、そのうちに慣れっこになって、そのまま湯につかっている客が多くなった」。
ついに終戦。昭和二十年八月十五日直前の一行日記。この頃になると、さすがに休みが多くなってくる。それでも二、三日は続けて営業している。番台に座りながら書いた日記のこの落ち着きぶりは一体何なのか。日常の細々したことはほとんど書いていない。まるで、新聞記者か外交官の日誌のようではないか。事実、父は、知り合いの新聞記者から聞いて終戦日の四日ほど前から知っていたという。銭湯の主人は様々な職業の人と知り合える。従って、情報も早い。
『日本も大戦以来緒戦で酔い過ぎた。聖将山本元帥、陣頭に立ちて戦死せられて日本の勝敗分れる處とはなった。あらゆる局面に於て政府は国民を引張る力が足らず。又大英雄が居ないのだ』(二十年八月四日)。『今月に入り天候が我然良好となり、連日猛暑続く。科学力の前には如何なる精神力も圧倒せられるか?』(同八月六日)。『濁降伏以来、敵の重力は挙げて日本に懸り今や日本は死か降伏か二途のみとなる。清兄、健兄は何処に?』(同八月七日)。『人道無視。敵遂に広島に於て原子爆弾を使用、多数の家屋、人命を失う』(同八月八日)。『ソ聯、遂に日本に対し一方的宣戦布告となり、帝国の前途に暗影を与えり。先勝?降伏?』(同八月九日)。『戦局の正に我に絶対不利となり降伏は時間の問題となる。ソ聯参戦に依り如何に国民は力を落したかは想像に余りあり。名外交家の居ない所以なり』(同八月十二日)。『和平交渉決裂か。早朝より艦と機来襲す。午后六時に店開け七十円位入る。やっても損はしなかった』(同八月十三日)。『輝く戦果に始れる大東亜戦争も遂に最后の段階に立至り日本民族も三千年の歴史に傷を付けて仕舞う』(同八月十四日)。『天皇陛下畏くも正午より御放送』(同八月十五日)。
翌十六日にはもう。店を開けている。父は「体がきれいになれば心もきれいになる。だから、店はどんなことがあっても休んではならない」と常に言っていた。日記にある清見はビルマに出征していた長兄。戦後に復員したが、次兄の健兄は遂に帰らなかった。
それから四年後の一行日記にはこうある。『馬鹿な事をしたもんだ。だが、結果が負けたから悪いので良い時やめればよかったのだ』(二十四年六月十六日)つまり、戦況が有利に展開していた時点で戦争を止め、外交舞台に切り換えていれば、兄を失うこともなかったし、広島、長崎の犠牲も出なかったろうにと言うことか。 |
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